2016/02/24

10月ぐらいにまごころ介護にやってきた朝比奈と申します。普段は美術の大学に通っています。はじめまして。よろしくお願いします。
今日は事務所で先輩の花井さんに移乗と服を着せる練習に付き合っていただいて、またひとつ経験値が上がりました。よかったですね。色んな先輩に聞くところやっぱり介護のコツは明文化できない感覚的なもののようで、教える、教わるというのが難しいです。ほとんどスポーツをやっていくのに近いです。
始めたばかりの頃、人に服を着せるのに手まどいながら、自分がまだ子供のときボタンが留められなかったり前後ろを間違えたりしながらもたもたと朝の準備をしていたのを思い出しました。大人が普通にできることができないあのもどかしさを今再び味わっています。逆に言うと今の自分の生活、朝ギリギリに起きてギリギリで支度をしてギリギリに電車に飛び込む時の最適化された動作は私が22年かけて培った職人芸ですから、他人の生活をアシストしていく時も一から職人を目指していくわけです。生きなおすわけです。めちゃくちゃ大変だなと思います。がんばります。

話は変わりますが最近京都に行ってきました。ちょうどいくつかのお寺が普段は見れないような重要文化財を開放している時期でひたすらに寺から寺を回って様々な話を伺いました。
京都では昔話というと平安とか室町時代とかがメインになってきます。江戸時代だともうけっこう最近、第二次世界大戦はついさっきくらいの時間感覚です。ですから人の一生とか、22年なんて月日は一瞬のことです。
普段美術館で見る絵はその作者が描いた作品だ、という感じがしますが京都で見た襖絵は誰か一人というよりとても大勢、つまり何代にも渡る時間そのものが描いた作品という風にも見えます。
そして襖絵にしろ庭にしろ仏像にしろ、その場所、その宗派のお寺の建築に合わせて存在する作品なので、鑑賞するとき場所と物を区別して見ることができません。人の所作も含めて考えられた空間ですから、例えば庭を見るときは正座をしないと本来の構図にはならないわけです。こういうところも美術館の作品とは見方が違うなと思います。
いくつかの襖絵は保存の関係で精巧なレプリカだったり、あるいは戦争の関係で有名な作品はメトロポリタン美術館なんかに没収されていたりするのですが、あるべき場所にあるレプリカを見ることと、別の場所に陳列された実物を見ることと、果たしてどっちを本物の鑑賞と呼べるのかは難しい気がします。



一体なんの話がしたいのか分からなくなってきました。
私は大学で絵を描いていますが、絵は手で描くものの何を描くべきか考えるのは頭だと思っています。思っていました。ですが考えることや思い出すことをしているのが頭だけの仕事ではないと最近は思います。頭というのは意識のことで意識が何かということはもう突っ込みませんが、身体には頭とは別としての記憶媒体があるように思います。そんなことは「体で覚える」という言葉が介護でもよく使われるように当たり前のことかもしれませんが、文字で書かれたものが文字を読むことによって全くの他人にも伝達されるように、他人の身体の通り過ぎた道筋を自身の身体によって再生するような感覚があります。子供の頃の私はもうこの世にはいませんし、写真を見ても思い出せませんが、かつての動作をなぞる時だけ彼女は蘇ります。このような情報は本とは違って大文字の歴史として残ることがありません。けれども人の一生が何でできているかといってほとんどはそういう無意識の身体の行いで、つまり人の頭からしたら意味のないことばかりです。車輪がひたすら回転し続けることだけであらゆることが過ぎていきます。なんとなく、本当になんとなくですが「南無阿弥陀仏」とひたすら唱えることで仏に近づいていくという原理が京都のあの場所では分かるような気がしました。

というこの話の結論をさっきまでは覚えていたのに、少し出かけて用事を済ませている間に思い出せなくなりました。また何かのきっかけでさっきまでの自分が現れてくれたらと思います。